阿久悠さん、映画の世界を思い浮かべながら作詞 元音楽ディレクターが明かす“職人”たちの素顔(夕刊フジ)

【昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー烈伝】

 今、昭和歌謡が熱い。時代を彩ってきた数々のヒット曲を生んできた“職人”たちの素顔を、間近でみてきた元音楽ディレクターが明かす。

 阿久悠さんは兵庫・淡路島出身。中学時代は結核を患い学校は休みがちだったが、なんとか高校に進学する。しかし町から通う同級生との学力差に愕然とし、戦意喪失すると映画館通いに明け暮れた。

 映画通は誰が監督とか俳優の名前を覚えるものだが、阿久さんはレストランでの食事の仕方とか、ホテルの入り方なんかをよく見ていた。役者の名前より役の名前を憶えていたという。

 上京して大学を卒業すると、小さな広告代理店に入った。どんな仕事かよく理解していなかったが備考欄に「月光仮面制作中」と書いてあったので脚本が書けると思い受けたら合格。ところが仕事は次週の予告ばかり、それでも地方のCMソング、ポスターの制作なんかを手がけ、それなりに面白かったそうだ。

 その後、フリーのラジオ、テレビの音楽番組の構成をやり、自らの企画でザ・スパイダースがレギュラーになった。そのスパイダースがシングル『フリフリ』を出すことになり、そのB面『モンキーダンス』を書いたのが作詞家デビュー。

 阿久さんが詞を書くときはタイトルが決まらないと書けなかった。

 企画上の“街”が決まると、そこにいる人の服装とか、何を持っているとか、その町の風景を覆い浮かべながら、書いたそうだ。映画を見る姿勢とよく似ている。

 『北の宿から』『津軽海峡・冬景色』『舟唄』など、どれもリアルに絵が浮かんでくるのは、そういうことなのだ。

 僕が阿久さんと初めて仕事をしたのは1977年夏。スパイダースのメンバーだった大野克夫さんのアルバム制作だった。詞は全編阿久さん。テーマが明確だったので打ち合わせはすぐに終わり、開幕したばかりの高校野球の話になった。

 僕はその頃、アマ野球からプロ野球まで選手のプロフィルを細かく頭にいれていたことを自慢していたが、阿久さんは川上哲治から大下弘まで淡々と話され、阪神球団で働く職員のことまで、すらすらと話した。

 黙り込んだ僕がふと事務所の本棚の下に目をやると『プロ野球年鑑』がびっしりと並んでいた。赤面、赤面。

 ■阿久悠(あく・ゆう) 1937年2月7日~2007年8月1日、享年70。1976年の「北の宿から」(都はるみ)など日本レコード大賞5度受賞は作詞家では最多。

本当にあんなに効果が出るんなら嬉しいんだけど、
(ちょっと現実離れした)
インチキ商品のような疑惑を感じるのも普通だよね。

わたしが気になっているのはコレ・・・

実践者の暴露レビューとかを参考にして
購入するかどうか決めようと思って

ネットで色々調べたら
そんなに悪い評判や口コミが無いんですよ。

サポートもしっかりしてる★と評判が良さそう

どうしよう・・・これはGO!かな?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です